2013年10月

特別対談:日立製作所 川村会長にきく(2013年10月)

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 およそ100年前、「ベンチャー企業」だった日立が製作した5馬力モータ(電動機)は我が国における革的なイノベーションとなった。その開拓者精神は約100年後に、鉄道発祥の地であるイギリスに最新鋭車両866台を供給するという偉業も成し遂げた。同社は今後、電力や交通システムなど複数インフラをIT技術で結びつけてエネルギーの低炭素化や省エネを効率的に実現できる「社会イノベーション事業」に取り組み、グローバル社会全体の環境負荷低減を目指す。本記事では、日立製作所・川村隆会長に当協会・冨澤龍一会長とご対談いただき、創業時のエピソードから2009年のV字回復、さらに今後もっとも重要視するグローバル人材教育までを語っていただいた。
(写真 左:川村会長(日立製作所) 右:冨澤(産業環境管理協会))
 

冨澤:本日はご多忙のところお話しを伺わせていただく機会をいただき誠にありがとうございます。日立様には当協会の創立以来、中心メンバーとして協会運営に多大なるご支援をいただいております。機関誌「環境管理」の読者に代わってお話しをお聞きしたいと存じます。

||| コンテンツ |||
1.5馬力モータとベンチャー
  2.日立創業の精神  3.事業展開の側面  4.英国鉄道ビジネス
5.教育問題  6.社会イノベーション事業  7.将来の展望  8.産業環境管理協会に対する期待

1. 5馬力モータとベンチャー

冨澤:多分野にわたる事業をグローバル展開されている日立製作所では創業から現在まで環境に配慮した事業をなさっています。川村会長は日立工場の工場長もおやりになったと聞いております。日立製作所は創業100年を超えていますが、最初に創業時のお話をお聞きしたいと思います。
川村:創業は1910 年ですから、世の中では人力車が走っており洋服を着る人もほとんどいなかった時代です。創業者小平浪平は銅の掘削や製錬などに使う機械の修理工場を受け持っていたのですが、ベンチャーカンパニーをつくろうと決心していたのです。
 銅鉱山では巻き上げ機とかトロッコなど機械もたくさん使われていましたが、当時、それらが全部輸入品だったのですね。モータといったものまでアメリカやドイツから買ってこなければならなかった。その修理を創業者はやっていたのです。それ以前に小平が勤務していた鉱山や電力会社で使われていた機械も全部輸入品だったので、彼はなんとか自分で機械をつくってみたいと強く思ったのです。
冨澤:現在も堂々たるリーディングポジションを持つ日立モータが最初に開発される場面ですね。テレビで誕生のエピソードを拝見したことがあります。ところで、創業時は開発資金の調達や人材面でも大変だったのではないでしょうか。
川村:鉱山経営者の久原さんは投資に当初難色を示しましたが、小平の熱意に負けて、最終的に「少しやってみろ」ということになり、なんとか開発に着手できたのです。それで、僅か数人の職工と設計者だけで5馬力モータを3 台つくってしまうんですね。
kawamuraXtomizawa_moter.png冨澤:ゼロからの開発は大変なことだったと思います。
川村:モータの絶縁物には、無機のマイカ、雲母を使うんですが、製造がとても難しかったんです。製造機械を英国から輸入したり、コイル巻線機を自作したりと大変でした。
冨澤:モータはすぐに実用化され炭鉱で使われたのですか?
川村:ベンチャー企業として自作したモータは、過酷な環境であった鉱山で実際に使用できたのです。1 台は70年という一生を全うし日立事業所内の記念館で今も大事に飾っています。創業100周年記念パーティーでは5馬力モータを会場に展示して、ベンチャー企業として日立が創業したことを皆様にお伝えしました。
冨澤:創業者は教育面でどのような活動をされたのでしょうか?
川村:そうですね、今でも感心することは、創業と同時期に技能教育の学校をつくったことですね。教育に関しては当初より非常に熱心でした。
冨澤:人が大変少ない創業時から学校、人材教育に力を入れたことは素晴らしいですね。
川村:実際は読み書きそろばんから始めたようです。相当な覚悟だったと思います。創業7~8年の段階で研究開発部隊をすでにつくっています。研究開発はベンチャー企業にとって大変なことだったと思います。今のベンチャー企業に負けないような経営でしたね。
冨澤:創業時から学校を設けて教育に打ち込んだベンチャーは今でもあまりないと思います。
川村:現在売上で国内10位以内、世界50位ぐらいの大企業になっていますが、ベンチャー企業として始まったということを我々は大事にしています。
冨澤:茨城県の日立に世界で一番高い煙突があったことは有名です。当時としては排煙の拡散技術も素晴らしいし、環境に関する意識も相当高かったのでしょうね。
川村:銅鉱山は公害の種でした。当時、別子銅山や足尾銅山でも公害が大きな問題になっていました。それをなんとかしようということで日立鉱山(久原鉱業所)が煙の拡散を計算したところ、156mの煙突が必要なことがわかったのです。こんなに高い煙突の建設は大変なことでした。日立鉱山は1981 年に閉山し、煙突は私が日立工場長をやっていた1993年に倒壊してしまい、その後修復されて1/3の高さになりました。
冨澤:日立は桜で有名ですが植林もしていたのでしょうか。
川村:大気汚染をチェックするために桜を植えたのです。異常がなければ桜の花がちゃんと咲くというわけです。最初は心配だったので煙害に少し強い大島桜を植えました。それで問題が全くなかったので、次は普通の桜を植えていきました。植樹した界隈では今でもきれいな桜がたくさん咲きます。
 ともかく、創業者の信念は今でもあちこちに残っていて、教育、品質といったことをしっかりやっていました。「環境」という言葉はあまり使いませんでしたが、リデュース、リユース、リサイクルはあちこちでやっていて、いわゆる3Rが生きていました。
冨澤:そういうことが先取りできたということは企業理念が極めて明白だった、しっかりできていたということでしょうか?
川村:そうだと思います。「優れた自主技術・製品の開発を通じて社会に貢献する」という企業理念は今も受け継いでいます。
『2.日立創業の精神』 へ続く〔PDFファイルにてご覧ください。〕)

 

kawamuraXtomizawa_kikanshi_top.gif『2.日立創業の精神』『8.産業環境管理協会に対する期待』については、下記よりPDFファイルをダウンロードのうえ、ご覧ください。

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